アンコールワットに行ってきました

夏休みに三世代で、カンボジア+タイを旅行した記録

DAY08 [4] ウィサさんの語る内戦

 

 

バイヨンへの道は一方通行

 

来てから3時間ぐらい観光しただろうか。


見ようと思えばまだ裏手の男池、女池など、
彫刻の有名な見どころがあるんだけど
おじいちゃんはもう十分堪能したというし
みんな結構ヘロヘロなので
今日の観光は終了にし、
ウィサさんの車に戻って乗り込んだ。

 


市街地のタプル通りに
手頃なレストランが何軒かあるようだったので
今日はタプル通りにつれていってくださいとお願いした。
時刻は11時20分だった。

 

車はバイヨンをまわって、南大門に向かう道路に
入る寸前でとまった。

 

午前中は南大門からバイヨンに向かう車が多いが
南大門は車がすれちがえる幅がない。

ここで双方通行にすると
すごい渋滞を招いてしまうので、午前中は一方通行にして
ランチに戻る車が多くなる11時半からは、
一方通行が解除になるのだそうだ。
(もしくは、反対向きの一方通行に
なるのかもしれない)


もしいま帰るとしたら、バイヨンをもう一度回り込んで
ライ王のテラスと象のテラスの前を通って
はるかかなたの北門か、東側にある勝利の門を通って
アンコールトムの外側をまわって帰らなければならず
とんでもない遠回りを強いられる。

その方が無駄に時間がかかるので
ここで10分待つことにした。
待つ間に私たちの後ろにも
何台か、市街へと帰る車が並び始めた。


結局11時25分ぐらいに警察官がウィサさんにOKの合図を送り、
私たちを先頭とする車列は南門に向かった。

 

シェムリアップのキリングフィールド


帰りみち、ある寺院の前を通ったときにウィサさんが、
ここはキリングフィールドだと教えてくれた。


クメールルージュが支配していた時期、
クメールルージュは、組織に抵抗したり、
組織のものを盗んだり、隠れてものを食べたり、
場合によっては手がキレイだ(=労働者の手ではない)
というだけで人々を粛清した。
粛清された人々の数は、当時の人口の1/2とも1/4とも言われる。

粛清を行った処刑場は各地にあって
内戦後に膨大な数の人骨が掘り出されたため
のちに寺院が建設されて、慰霊が行われた。

そうした場所は、英語ではキリングフィールドと呼ばれる。
この名はカンボジア内戦を扱った映画のタイトルにもなっている。

シェムリアップには、市街とアンコールワットの間に
キリングフィールドがあり、
その跡地に寺院が建てられているのだった。

1975年にクメールルージュがプノンペンを占拠し
カンボジアの支配権を握ったとき
それまでの政府の関係者や知識人、
政府軍兵士だった者はほとんどが殺された。


ウィサさんのお父さんは政府軍兵士だったため、
その年クメールルージュに殺されてしまったのだそうだ。

 

処刑された兵士はキリングフィールドに埋められるか
捨てられるだけだ。
ウィサさん家族はお父さんの遺体を埋葬することも
遺骨を拾うこともかなわなかった。

 

そのときウィサさんは3歳ぐらいで、
悲しいことにお父さんのことは
ほとんど記憶がないのだそうだ。

 

幼い子供たちを残してそのような形で命を失ったお父さんは
どんなに悔しかったことだろうか。

 
ウィサさんの家族は大黒柱を失い
それからあらゆる辛酸をなめた。

しかし、お姉さんが、日本人宿タケオゲストハウスを
買い取って経営を始めたことで
やっと一族の生活は安定したのだった。

 

ウィサさんの願い

 

ウィサさんは、戦場カメラマン一ノ瀬泰造のことも
話してくれた。
カンボジア人とともに内戦のカンボジアにいて
世界にカンボジアの状況を発信しようとしていたけど
志なかばで殺されてしまった日本人のカメラマン、
タイゾーというひとがいた。
いまプラダック村にお墓があるんだよ」
と教えてくれた。

「今のカンボジアの政治は、首相のフンセンが中国の言いなりで、
中国が山を壊したり環境をこわしたりめちゃくちゃしているのを
好きなようにさせている。
フンセンをやめさせたくてもほかの政党の人間は
つぎつぎ逮捕され、投獄されてしまう。
まっとうな選挙ができるようあなたたち先進国の人々に
力を貸してほしいんだ」
とウィサさんは言った。

これは帰ってきてからしばらくたってからのことだけど
カンボジア民主化しようとする政治家が
政府転覆の嫌疑をかけられてここ数年国外追放されており
ついに国を動かすためカンボジアに戻ろうとしたら
航空会社に搭乗を拒否されたっていう話をテレビでやっていた。

欧米諸国はカンボジアの現在の政治状況に抗議し
経済制裁を科して、カンボジアに方向転換を促しているけど
日本は現政権や中国に遠慮して
どっちつかずの態度を示しているんだって。

ウィサさんにはカンボジアの未来について
本当にせっぱつまった思いがあるらしくて
この話になるともうまったく口をはさむ余地がなかった。

 

「道路にかざられているのはいまやフンセンの写真ばかり。
国王の写真なんかロイヤルパレスにあるだけだよ
こんなのおかしいでしょう?」
とウィサさんは言っていた。


道に国王の写真があるべき、とは思わないけれど、
そういわれてみれば、街路灯があるたびに、かかっている写真は
たしかにフンセンのものばかりだった。

このことで日本を動かすために私に何ができるか
考えてしまったね・・・。

 

タプル通りのインドレストラン「ヒマラヤンキッチン」

 

話しているうちに、車はタプル通りについた。


ウィサさんには先日と同じ$25と、チップの$5をお支払いし
お礼を言って、ここでお別れした。


自分でめぼしいレストランにマークしたgoogle mapによると
結構評価の高いインドレストランがこの近くにあるみたいだ。
「インド料理食べたいひと~」
ときいたら、たろさん、けろりこ、おじいちゃんが
ハイハイハイハイ!と手をあげた。
このひとたち三兄弟って感じ(^^;


インド料理店はまだ開いたばかりみたいでお客が誰もいなかった。
店についたらすぐ、ちょっとアゴがしゃくれた感じの
おそらくネパール人の店長がエアコンすぐつけてくれた。

けど、このエアコンは全く効かなくて
空気が流れてる感じしかしなかった。


メニューを見て、2個入りで1.5ドルのサモサを2皿に、
カレーはマトンマサラと
ラクパニール(カッテージチーズいりほうれん草カレー)と
バターチキンカレーの3つをたのんだら、
「この人数にカレー3皿はたぶん少ないんじゃない?」と言われ、
おすすめされるままにチキンカレーをひと皿追加した。


それから、75セントのチャパティを10枚たのんだら、
チャパティはちょっと小さいから1ドルのナンを勧めるよ」
と言われた。
「ナンはひとり1枚で足りる?」ときいたら、
「十分だと思うよ」というので、ナンを5枚たのんだ。
あとは、水の大きいボトル。


お店は店長ひとりしかいなくて、料理が来るまでに
ちょっと時間がかかりそうだ。

地図を見てると近くにSoup 9999という店がある。
この店の写真にチュナンダイらしき鍋物が写っている。

昼からやってるようだったので、
私だけちょっと抜け出して300mほど歩いて
見に行ってみた。

 

お店にはけろりと同じくらいの娘さんと、
そのお母さんらしきひとがいた。

クメール語
ティーニヒ、ニャム、チュナンダイ、バーンテー?」

(ここでチュナンダイ食べられますか?)
ときいたら、力強く
「ミエン(ある)」と言われた。


メニューも見せてくれて
$10に「×」されていて、$5って書き直してあった。
よっしゃ!ここでチュナンダイ食べられる!!
滞在中に必ず来よう。